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☆ 母との最期の時間

南房パラダイスの花1.58MB .jpg
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その日は秋晴れの良い天気だったが、遠い南にある台風17号のせいか風は夜まで強かった。

前日の土曜日の夕方は、自宅のすぐ近くに住むデザイナーをしている友人の結婚式であった。午前のデッサンの授業を終えて、軽い昼食を摂ってから、午後は事前の予定通り次週の火曜日からのモチーフを同じ授業を午前中に担当されている教授と組んだ。その作業は火曜日の授業の担当ではないのに土曜日午前の助手さんが手伝ってくれたので大変助かった。様々な形と色とりどりの瓶を陶器の器と共に高さと形の違うモチーフ台に白い布を敷いた上に並べた。
スマートフォンのニュースには台風の進行予想の他に、御嶽山が噴火したとの情報が流れていた。
午前の授業中に六つ上の兄から、昨日の早朝に脳梗塞で入院した母が、新たに脳内出血をしてしまったとの伝言が携帯の留守電に入っていた。結婚式は申し訳ないがキャンセルしてすぐ帰らなければと思い兄に電話すると、義姉が出て、今夜は四つ上の兄が付き添うので、幸せな2人を祝ってあげて欲しいと言ってくれた。
私も人生で一番幸せな日の2人に水をさしたくなかったのでその言葉に感謝した。

友人の結婚式の帰りの電車内で今度は病室に居るであろう四つ歳上の兄からの着信があった。
電車を降りてから兄に電話をすると、母は13年間毎週三回、人工透析を受けていたので血管が弱くなっており、呼吸も司る脳幹にも出血の影響があるようなので、今日明日が山だと担当医から告げられたとのことだった。今夜は俺が付き添うので『明日お見舞に来てくれればかまわないから』と兄も私に言ってくれた。
兄の声を聞くと電話をしながら涙が止まらなかった。
こんな気持ちのまま帰宅しても、とても眠れないと感じたので、自宅近くの行きつけのBARでタンカレーで作ったジントニックを6杯飲んでから帰宅し、その日は二日酔いを和らげる薬を多めの水で飲んでからベッドに横になった。


翌日の日曜日に私は、日本列島の曲り角にある犬吠埼灯台にほど近い病院へ車を走らせた。
そこは所沢の自宅から160kmほどの距離であった。関越道から外環道を経由して首都高速で湾岸線へ抜けた。
右側にはスカイツリーと葛西の東洋一大きな観覧車やディズニーシーのプロメテウス火山の炎がみえた。湾岸線から東関東自動車道経由で京葉道路に抜けた後は、千葉東金有料道路を経由して、生家近くにある圏央道の出口で降りた。
病院の途中にある生家に寄ると、義姉が一緒に来てくれると言ってくれたので、2人で病院へ向かった。
私の母は1号館の5階の14号室で寝息をたてて、すやすやと寝ていた。

母のベットの横には、完全看護の為と個室が空いていなかった為、パイプ椅子に座って夜通し付き添ってくれた四つ上の兄がいた。

兄は中学で国語を教えているが、今年は教務主任で担任を持っていないので明日の月曜日は休みをとれたから
今から一度休んで夕方にまた来る。と言ってくれた。
その後、暫くして義姉の夫の私の六つ上の兄が次男と共に病室に来てくれた。
しばらく母の容体を見守った後で、六つ上の兄夫婦とその次男の私にとっての甥と四つ上の兄が病室を後にした。

母と二人になってから私は改めて母の姿を観察した。
人生でこんなに母を凝視したことはなかった。
母の身体は私の知らない内に小さくなっていたが一生懸命肩で呼吸をしていた。
私はどうしょうもなく涙腺がゆるんだ。
母もいつ涙を流したのか、眼尻が少しだけ汚れていたので、備え付けの濡れたガーゼで拭いて綺麗にした。
伝えておきたかった言葉が沢山あったが、どんなに話し掛けても、もう伝える事が出来ない現実はすぐには受け止めることが出来なかった。
8月のお盆休みに『今度会うのは11月のお父さんの誕生日だね。』と伝えたのが最後に交わした言葉になってしまった。
母には身体中に様々なセンサーが取り付けられていた。左手首の血管に指先で軽く触れると、血液は勢い良く流れていて、母の心臓の活動が伝わって来た。
言葉は交わせなかったが、自力で一生懸命呼吸している母に会うことが出来て良かったとその時は思った。


12時から5時までの間、時に肩で息をしたり、時にすやすやと眠る母を看続けた。
母は眼を閉じたまま、秋の光の差し込む窓側に顔を10度ほど傾けて、少しだけ開けた口から赤ちゃんのように舌を見せて寝息をたてていた。
本当に人は二度赤ちゃんになるんだなと思った。
今まで苦労した分ゆっくり寝て欲しい。
そして必ずもう一度目覚めて欲しいと私は祈った。

途中で担当の看護婦さんが、熱のある母の為に添えられている枕元と脇の下の冷却材を変えながら、床ずれにならないようにと、寝ている母の態勢を今度は真上に顔が向くように治して下さった。口は閉じなかったか、舌は口の中に隠れた。
5時過ぎに翌日の月曜日に休みを取ってくれた四つ上の兄が病室へ戻って来てくれた。
暫く兄と話しをしてから私は、
『母さん!今夜も兄貴がそばにいるから淋しくないね。』と母の頬を触りながら伝えて病室を後にした。病院の玄関を出ると太平洋を越えて九十九里浜の方から吹いて来た風が病院の壁に当たり、ビル風のように強く私の体に吹きつけて来た。九月の太陽は傾きかけていた。
タバコを吸って心を落ち着けてから、5時半過ぎに私が車のエンジンをかけると、もうすぐ日没なのでライトの点灯を確認するようにと、ナビゲーションシステムの女性の声が伝えてきた。
その後、病院からちょうど21kmの生まれ育った家へ向かった。
運転中、生まれ育った家の方角の60度ほどの高さの空には、右下の明るい三日月がクッキリと浮かんでいた。
車を運転しながら私はいつしか13年の間、毎週三回、人工透析に通っている時に、送る父と送られる母はどのような会話をしたのかを想像していた。単純計算で2028日で、父は二往復するので4056回で約162240km運転していたことになる・・・・。

そんなことを考えているうち、子供のころ自転車で通った道を思い出し、ナビゲーションの指示とは違う遠い記憶の道を通って私は生家へ向かった。中学生の頃に鮎を釣った、秋に鮭が遡上する栗山川の橋の袂にあった二つならんだ釣具屋は無くなっていた。
子供の頃には広く感じた隣町の駅前の交差点は、こんなにも狭かったのかと思うほどの面積に感じられた。
生家に戻ると一つ歳上の従姉夫婦が心配して来てくれていた。
お仏壇に線香をあげてから、
従姉とは数年ぶりの再会だったので、色々な話をしながら一緒に夕飯を食べてから、私は所沢の自宅へ向かった。
夜は空いているので、東金までは高校の通学路であった国道126号を使い東金ICで高速道路に乗った。
夜空の三日月は右側に見える桔梗ヶ丘の上に建つ母校の中学校の校舎のすぐ上にまで降りて来ていた。
そしてやはり途中の右側の山の上に、夜ではあったが母校の高校の校舎の形がシルエットで見えた。
その後、京葉道路の幕張PAで休憩を取った時に観た夜空には、右側の三日月は地平線に消えていた。


20140929月曜日
翌日は午前中がデッサンで午後は油絵の授業だったが、こんな時に仕事はいいから直ぐに病院へ戻れ!と恩師に言われてしまったので、後を助手さんに託して自宅へ向かった。
私に有無を言わさない恩師のその口調に感謝しながら、私は前日に引き続き病院へ戻った。
恩師には事あるたびに、ちゃんと親孝行しなさいと言われていたが、果たして私が親孝行していたかはわからない。
たぶん出来ていなかったのだと思う。
車を運転中、渋滞の度に涙があふれて止まらなかったが、なんとか無事に病院まで運転出来た。

私が病院に着くと、姪と甥2人の母にとっての孫が三人揃ってお見舞いに来てくれていた。長女の姪に会うのは数年ぶりのことであった。彼女は今、アパレル系の会社のショップで店長をしている。長男の甥はこの春に建築系の大学院を修了してから大手ゼネコンに就職して、施工の現場監督の見習いをしているようで、忙しい中わざわざ電車でお見舞いに来てくれていた。
甥と姪のことを暫く話をしてから夜通し付き添った次兄から付添いを引き継いだ。
母の容体は土日が山だと言われたが昨日より熱は下がっていた。
昨日と同様に容体を見守りながら私は母に言えなかった思いを語りかけた。
夜の8時過ぎに仕事を終えて来てくれた長兄に付添いを引き継いだ。長兄から夜中には長兄の次男が付き添ってくれると聞いて、それなら寂しくないねと昨日よりも顔色の良い母に伝え私は病室を後にした。帰りの車のラジオからは大型の台風18号が発生したニュースが流れていた。


その2日後の10月1日水曜日の朝に私の母、萩原たき、は永眠した。
病室も個室に移り、夜通し付き添った次兄から早朝に父へ付添いが交代して暫くしてから、父に看取られながらの穏やかな最期だったとのことだった。
テレビのニュースでは50年前に新幹線の運行が開始されたことが伝えられていた。
新幹線ひかりが発車する白黒映像を見ながら、50年前に今の私より若かった母はこの映像を見ながらどの様に思ったのだろうか?と想像した。ちょうど二番目の兄が生まれたばかりで、二歳と産まれたての2人の息子を育てるのに大変だったのだろうか?
私はその時まだこの世に、影も形も存在していないのだが・・・。

母が荼毘にふされ告別式が行なわれた5日後の10月6日の月曜日は、関東に大型台風の18号が接近していた。火葬場では竜巻警報まで出ていた。母は自他ともに認める晴れ女だったので、最期も清々しい秋の空気と光の中で母を送ってあげたかったが、その日の天候は私の心をそのまま映したかのように強い風と雨が降っていた。

台風の中を火葬場から戻って斎場での告別式を終え、いよいよ先祖代々の奥都城への納骨となり、参列して下さった方達と親族が斎場の外に出ると、昨夜から続いていた台風による横殴りの風雨は収まり、なんと青空が広がっていた。

納骨を終え、大型台風の過ぎ去った青空を飛ぶ飛行機を見ながら私は、旅行の好きな母の身体だった物質のある部分は雨と一緒に生まれ育った地元の大地に染み込み、ある部分は台風の風に乗って世界を旅して行くのだろうかと思った。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

その時私は、
人間は炭素ユニットであり、
人は星屑から出来ていることを思い出した。
そして母は最期まで肩で息をしながら、残りの人生を一生懸命生きなさい!と台風の過ぎ去った空の色と共に
私に教えてくれた気がした。
と同時に母から最期に大きな宿題を出された気持ちになった。


はたして私は、
ちゃんと生きているだろうか?



そのすぐ後で私は心臓が止まるかと思う程の経験をしたが、それを文字に表すことは今はまだ出来ない。
嵐の出棺1.91MB.jpg


納骨後の青空.JPG

最初の2枚の写真は7年前に両親の古稀のお祝いで3人で温泉旅行へ行った帰りに寄った南房パラダイスの植物園と、そこにいた鳥に餌を与える私の母の手。
最後の2枚は出棺時と納骨後の青空。


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rieko ito

人の死をどう受け止めて、自分の中で解釈していけば良いのか。
私も去年大切な人を亡くしました。
ただただ後悔して、ああすればよかったこうすればよかった、そんなことばかり頭を巡って、考えないようにするのが精一杯でした。
けど結局事実からは逃れられず、ただただ時間を過ごしていくことしかできません。今もそうです。
どう向き合えばいいのか、どう解釈すれば良いのか、答えはわからないけれど、この文を読んで私もちゃんと生きよう、と思えました。

私の住んでいる栃木は、今日とても晴れてます。
もしかしたら、私も背中を押されてるのかもしれません。
by rieko ito (2014-10-24 11:46) 

はぎぽん

rieko ito 様へ

ご訪問とコメントをありがとうございます。
消えない哀しみには耐えるしかないと言った人もいますが、
哀しい時には無理しなくて良いのだと思います。
内に貯めると心が苦しくて辛くなるだけだから。

私にはどなたが亡くなったかはわかりませんが
その人の為にも残されたriekoさんが
しっかりと生きて行かなくてはならないのでしょうね。
墓標はたとえ亡くなった方を忘れても
年に数度思い出せる為にあるのだから
普段はその人を忘れるほどに自分の未来への可能性を信じて
精一杯生きなくちゃいけないと言った人もいるようです。

お互い頑張りましょう。
by はぎぽん (2014-10-25 04:40) 

たいへー

当ブログへのご訪問ありがとうございます。
3年前、父を亡くした想いが過ってまいりました。
今は未亡人である母と「格闘」しながら、何とか歩んでおります。^^;
人の命は重いものですね。
by たいへー (2014-12-10 16:38) 

はぎぽん

たいへー様
ご訪問とコメントをありがとうございます。

irukaさんのブログで
目玉親父のアイコンが目に留まり
伺わせていただきました。
お母様のご健康をお祈りいたします。
by はぎぽん (2014-12-13 12:57) 

iruka

私の母も他界していますが、
時々夢を見ます。
優しい夢です。

by iruka (2014-12-23 09:46) 

はぎぽん

irukaさん
お久しぶりです。
お元気でしたか?
なんだか懐かしいですw!☆(・∀・)☆

ご訪問とコメントをありがとうございます。

私も時々、若かった頃の自分と母が夢に出て来て
目が覚めた時には何だか不思議な気持ちになることがあります。

by はぎぽん (2014-12-24 04:25) 

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