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☆ 最高の一年になることを!

2017年賀状ブログ用のコピー.jpg


ブログ関係の皆様には大変ご無沙汰しておりました。

昨年は元旦から車の事故に遭い最悪な一年でしたが、
今振り返れば周りの皆様のお陰で
何とか新年を迎えるまでの日々を
過ごせたような気がします。

ありがとうございます。

今年が皆様にとっても素晴しい一年になりますように!
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☆ あらためまして

年賀状画像ブログ用.jpg


元旦の夜から最悪なスタートになってしまいましたが、
残りの日々は良いことだらけの一年にしたいと思います。

これまでご訪問下さりおつきあいして下さった皆様の
益々のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。/(^_^) <(_ _)>




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☆ 待合室での追憶

子供時代写真 のコピー.JPG

理由は今でも知らないが、何故か肝臓を壊して40日間入院した子供の頃から私は病院が大嫌いだ。
病院が好きな人などあまりいないだろうけれど。

2016年元旦の夜、生家からの帰宅途中の信号待ちで停車中に、
私は後方からの車にノーブレーキで追突されてしまった。
もの凄い衝撃の中なんとかブレーキを踏みしめ私の車は前の車のバンパーの直前で停止した。
車を降りると追突して来た車のフロント部分はペチャンコでエアバッグが開き、
クラクションの音が元旦の静かな深夜に長い間鳴り響いた。
運転手はしばらく降りて来れなかった。
その場ではアドレナリンが出ていたのか寒さからなのかわからないが、
僅かな痛みしか感じなかったので、警察だけで救急車は呼ばずに事故現場からすぐ近くの自宅へ帰宅したが、
翌日目覚めると首が痛み出したので久しぶりに病院という場所へ行った。
それは一昨年に他界した母のお見舞いに行って以来であった。
整形外科医のいる救急病院は正月のため簡単には見つからなかったので、
119に電話をして二つの病院を教えてもらった。
iPhoneのSiriにどちらの病院の方が自宅から近いかを聞くと、
とても正確に答えてくれたので、『ありがとう!』とお礼を言ったら、
『それは私の言う言葉ですよ!』との返事が返って来たので驚いた。

二つの病院に電話をすると、
自宅から近い方の病院には整形外科医の当直が何故か不在だと言われたので、
当直の整形外科医のいる少し遠い病院へ行くしかなかった。
その病院の待合室にはお正月2日からたくさんの人がいて驚いた。

首のレントゲン撮影の後に目を閉じて椅子に座って診察を待っていると、
突然子供の頃に入院していた時の様々な記憶が私の瞼の裏に蘇って来た。

生まれ育った自宅から電車で1時間かかるその病院は完全看護の病院だったので、
40日間毎日私の母や祖母をはじめとする家族や親戚が代わり番こにお見舞いに来てくれた。
幼かった私は自分が何故入院しなければならないのかを正確には理解していなかったし、
痛みと言う自覚症状も無かったので、
毎日面会期限の夜8時になると病院の出口まで見送りに行き、
母や祖母の姿が見えなくなるまで無邪気に手を振っていた。
私に手を振って見送られる度に涙が止まらなかったと祖母に言われたのは、
随分と私が年を重ねてからのことだったと思う。
入院していた小児病棟では何度も血液検査で血を抜かれたことや、
夕食は午後の4時で朝食は朝の8時だったこと、
病院食の味付けの薄さや、
私に間違って薬を飲ませてしまい婦長さんに怒られ泣いていた若い看護婦さんの名前、
同じ四人部屋に入院していた腎臓の悪い子供との会話やそのお母様の顔を思い出していたら、
現在の私の名前を呼ぶ看護婦さんの声がして私は幼い頃の追憶から醒めた。

完全に忘れていたようでも良く覚えている記憶は私の何処にしまわれていたのだろうか?
病院というこの独特の空気が蓋を開けたのだろうか?
そんなことを想いながら、私は私の首のレントゲン画像を凝視する整形外科医の前に置かれた椅子に座った。



            〈2016年1月1日から2日午後の記憶より〉


写真の右から2番目が、入院前のもの心もつかない頃の私。




とにかく健康が何より一番の幸せだし、家族を始め様々な人にお世話になってこの歳まで生きてこれたんだと痛感する年始でした。

今年一年の皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。

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☆ それぞれの1年間・・・

 先日の9月27日の日曜日は、母の一年祭と祖母の十年祭だったので、
私は前日の土曜日の夜から千葉の生家へ帰った。

土曜日の朝からの授業は火曜日のモチーフセットをしなくて良い以外は、
担当助手さんもモデルさんも昨年と全く同じだったので、
私はちょうど一年前を思い出し少し不思議な気持ちになった。
仕事を終え自宅に帰ると、長距離運転に備えて
私は珈琲を飲んでから少し休んだ。

前日の金曜日の車検の際にエンジンオイルを綺麗にしたせいか、
私のオンボロ車の調子は絶好調だったが、
秋雨で路面は濡れているし、
溝はまだ有るとはいえタイヤはさすがに古いので、
私はスピードは出さずに夜の高速道路を故郷へ向かった。
途中、幕張PAで休憩を兼ねて軽い夕食を摂った。
実家に着くと門は開いていた。一旦車を降りて門を閉め、
車を前庭の隅に停めたのが22:00をほんの少し過ぎた頃であった。
実家の居間では父がマッサージ機を動かしたままスヤスヤと寝ていた。
座敷と中の間の仕切り戸はお盆の時と同じように外されていた。
私は祖父母と母の遺影を観ながら先祖代々の位牌に線香をあげて居間に戻った。
タイマーが作動してマッサージ機が止まっても父はそのまま寝ていたので
自然に起きるまで私はビールを飲みつつ父の寝息を聴きながら時間を過ごした。
22:50頃に父は目覚めて近くに私がいることに驚いていた。
父は私と少しだけ翌日の話をした後、二階の寝室へ上がってしまった。
おそらく二階の私の部屋も空いているのだろうが
義姉の用意してくれた布団を敷いて私は居間で寝た。
雨の中の長距離運転の疲れとビールのアルコールのせいか、
途中で目覚めることもなく私は朝まで熟睡した。


目覚めた私は義姉の用意してくれていた朝食を食べ、
入浴してから喪服に着替えた。
昨夜、前庭の隅に停めた車を裏庭へ回した。
先に起きていた父は玄関を掃除しながら
『今日は雨が降ってるから追加の傘立てを運ばなければな~』と
義姉と話していた。
座敷にあるやたら重たい座卓を男四人で居間に運んだ後で、
参列者49人分の座布団と足の不自由な方の為の椅子を家族で並べた。
雨のせいか湿度が高く感じられたので、
一度しまった扇風機二台を念のため長兄と座敷に運んだ。
神事が始まるのは11:00からだったが、
10:00過ぎには参列者が見え始め居間はすぐに一杯になり、座敷へ溢れた。
義姉と姪はお茶出しで忙しく動いていた。

その後、滞り無く神事が終わり300m程離れた奥都城にお参りに行く時にも
まだ雨が降っていたので、家族だけで傘をさして歩いて向かった。
その中には今春結婚した長兄の長男のお嫁さんもいた。
私達が生家へ戻ると神事に参加して下さった方達は既に
マイクロバスで昼食会場へ向かわれていた。
私は姪のミニクーパーに乗せてもらい会場へ向かった。
私が19歳の時に生まれた姪が隣りで車を運転している現実は、
時の流れの早さを否が応でも私に実感させた。

会食を始める献杯前の挨拶をした時の父の声の音は少し高く、
それは父が緊張した時にしか出さない声だった。
この場で文字にすることは出来ないが、
母が他界してからこの一年の父の気持ちを知った時、
私は少しの間、目が見えなくなった。
こんな父に看取られ、きっと母は人生の最期の瞬間まで幸せだったのだと私は思った。


車を運転するので私は会食でお酒は飲まなかった。
会食会場からの帰りは、助手席に座った大学生の甥に、
父のプリウスのエンジンの掛け方を教わりながら、
立場上飲酒せざるを得なかった長兄を実家まで送った。
その後は神事を執り行って下さった神主さんを神事の道具と共に神社までお送りすることになった。
神主さんの指示のまま、子供の頃の遊び場だった神社の中に生まれて初めて車で入った。
久しぶりの金刀比羅神社にはとても大きな赤い鳥居が建てられていて驚いた。
遠い親戚でもある神主さんに本日のお礼を言って帰宅した時には
昨夜からの雨はすっかりあがっていて、天には所々に青空が見えた。

その時、私は今日の父の言葉と元気だった頃の母の笑顔を思い出した。




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☆ 夏至とマヤ暦の17秒と今年の1秒

??-34.JPG

昨日は特別な日。夏至。

これからまだ暑くなるけれど、
今日から少しずつ日が短くなる
少し切なく感じる日。

マヤ文明の高度な天文技術は、地球の公転・自転周期、金星や火星の公転周期を観測だけで計算していたそうで、特に地球の自転周期は細かく計算されていて、一年は365.2420日だとしていたとのこと。現代科学での地球の公転周期は365.242199日で、マヤ暦との差は一年になおすとたったの17秒ほどしか誤差が出ないというのは凄い精度だと思う。ちなみに今年2015年は閏秒挿入の年で、7月1日午前9時(日本時間)に08:59:60秒がカウントされる。

7月1日には『今日は昨日と明日より1秒長い』と思わず誰かに言ってしまいそう。

◆ちなみに日本の改暦は明治六年一月一日
明治五年は短かったんですね。

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☆ 25.April.2015

直人くん写真.JPG


先週の土曜日は夕方から、建築士をしている長男の甥の結婚式であった。
新婦はなんと私と同じ教室でデッサンを描いていた違う学部の学生だった。
現在はWEBデザイナーをしているとのこと。
私は午後の授業を終えるとすぐに電車とバスを乗り継ぎ、
ディズニーランドに近い海の見える式場へむかった。

『 Art Grace Wedding Coast 』 since1968


親族紹介と集合写真の撮影には間に合わなかったが、
挙式には奇跡的に間に合った。
私は急いで礼服に着替えて、
見晴らしの良い最上階の式場へ、1人でエレベーターで昇った。

新郎新婦も式場も遠くに見える夕暮れ間近の春の海も、
なんだかとてつもなく美しくて、
聖歌隊の讃美歌を聴いていたら自然と涙が溢れてしまった。

これだけ親族や知人が一同に揃うのは
昨年の秋に行われた母の告別式以来のことだ。
母は神式で葬儀をしたが、生まれた家はキリスト教だったので
『母さんも洗礼を受けたのよ。』と
私が小さな子供の頃に言っていた声をその時思い出した。
亡き母も一緒にこの讃美歌を聴きながら
天国で孫の結婚を祝福しているのだと思えたので、
私も声を出して何年かぶりに讃美歌を歌った。




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☆ 春休みの桜花のような半月と渡り蟹と青唐辛子

01桜花月再度保存写真.JPG
02枝垂れ桜月写真.JPG



今年も近所の河岸に連なる枝垂れ桜が咲き始めた。
白い半月が春の青い空に桜の花びらと共に浮かんで観えた

14年度が終わり、年に一度だけ使う背の高い花瓶に三つの花束を活ける。
春休みになると子供の頃に友人と太平洋を望む九十九里浜へ渡り蟹を釣りに行ったことを思い出す。
流木で焚き火をしながら一日かけて捕まえた何匹かの渡り蟹の記憶は、
神保町にある『覆面ラーメン智』で運の良い時だけ味わえる『渡り蟹のつけ麺』の味を私に呼び覚ます。
出汁にこだわり化学調味料を一切使わないそのつけ汁は甲殻類独特の香りを放ち、
つけ麺の時だけに使用する全粒粉の麺をあっという間に私の胃の中へ導く。
残ったつけ汁は、割りスープで割ると一滴も残さず飲まずにはいられない液体になる。
その店で週に一度しか食べられないつけ麺の中でも特に『渡り蟹味』は滅多に食べられない。
通常は日替りする様々な出汁で取ったスープの温かいラーメンを食べるのだが、
その場合はトッピングに青唐辛子を刻んでジンに漬けた物を注文する。
それは小さじ一杯で複雑な味のスープに目の覚めるような爽やかな辛みを加えてくれる。
今日は久しぶりに生の青唐辛子が手に入ったので、
細かく輪切りにしてタンカレーのジンとオリーブオイルに漬けた。

03渡り蟹つけ麺写真.JPG
04渡り蟹つけ汁写真.JPG

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07青トウガラシジンオリーブオイル写真 のコピー.jpg


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☆ 今日は特別な日

アトリエ西日680.jpg

今日は特別な日。

冬至。
これからまだ寒くなるけれど、
明日から少しずつ日が長くなる
喜びを感じる日。

今年は「朔旦冬至(さくたんとうじ)」で、19年に一度訪れる、
太陽と月が生まれ変わる日だそうです!
(((o(*゚▽゚*)o)))

19年に一度なのに次は38年後!
暦ってなんだか複雑(*^_^*)

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B6E1C6FCC5C0A4CEB0DCC6B0.html

渋川春海
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FC6FCCBDCA4CECEF12F2.BDC2C0EEBDD5B3A4A4C8C4E7B5FDCEF1.html

☆ 母との最期の時間

南房パラダイスの花1.58MB .jpg
南房パラダイス鴨にエサ_0229 1.58MB .jpg


その日は秋晴れの良い天気だったが、遠い南にある台風17号のせいか風は夜まで強かった。

前日の土曜日の夕方は、自宅のすぐ近くに住むデザイナーをしている友人の結婚式であった。午前のデッサンの授業を終えて、軽い昼食を摂ってから、午後は事前の予定通り次週の火曜日からのモチーフを同じ授業を午前中に担当されている教授と組んだ。その作業は火曜日の授業の担当ではないのに土曜日午前の助手さんが手伝ってくれたので大変助かった。様々な形と色とりどりの瓶を陶器の器と共に高さと形の違うモチーフ台に白い布を敷いた上に並べた。
スマートフォンのニュースには台風の進行予想の他に、御嶽山が噴火したとの情報が流れていた。
午前の授業中に六つ上の兄から、昨日の早朝に脳梗塞で入院した母が、新たに脳内出血をしてしまったとの伝言が携帯の留守電に入っていた。結婚式は申し訳ないがキャンセルしてすぐ帰らなければと思い兄に電話すると、義姉が出て、今夜は四つ上の兄が付き添うので、幸せな2人を祝ってあげて欲しいと言ってくれた。
私も人生で一番幸せな日の2人に水をさしたくなかったのでその言葉に感謝した。

友人の結婚式の帰りの電車内で今度は病室に居るであろう四つ歳上の兄からの着信があった。
電車を降りてから兄に電話をすると、母は13年間毎週三回、人工透析を受けていたので血管が弱くなっており、呼吸も司る脳幹にも出血の影響があるようなので、今日明日が山だと担当医から告げられたとのことだった。今夜は俺が付き添うので『明日お見舞に来てくれればかまわないから』と兄も私に言ってくれた。
兄の声を聞くと電話をしながら涙が止まらなかった。
こんな気持ちのまま帰宅しても、とても眠れないと感じたので、自宅近くの行きつけのBARでタンカレーで作ったジントニックを6杯飲んでから帰宅し、その日は二日酔いを和らげる薬を多めの水で飲んでからベッドに横になった。


翌日の日曜日に私は、日本列島の曲り角にある犬吠埼灯台にほど近い病院へ車を走らせた。
そこは所沢の自宅から160kmほどの距離であった。関越道から外環道を経由して首都高速で湾岸線へ抜けた。
右側にはスカイツリーと葛西の東洋一大きな観覧車やディズニーシーのプロメテウス火山の炎がみえた。湾岸線から東関東自動車道経由で京葉道路に抜けた後は、千葉東金有料道路を経由して、生家近くにある圏央道の出口で降りた。
病院の途中にある生家に寄ると、義姉が一緒に来てくれると言ってくれたので、2人で病院へ向かった。
私の母は1号館の5階の14号室で寝息をたてて、すやすやと寝ていた。

母のベットの横には、完全看護の為と個室が空いていなかった為、パイプ椅子に座って夜通し付き添ってくれた四つ上の兄がいた。

兄は中学で国語を教えているが、今年は教務主任で担任を持っていないので明日の月曜日は休みをとれたから
今から一度休んで夕方にまた来る。と言ってくれた。
その後、暫くして義姉の夫の私の六つ上の兄が次男と共に病室に来てくれた。
しばらく母の容体を見守った後で、六つ上の兄夫婦とその次男の私にとっての甥と四つ上の兄が病室を後にした。

母と二人になってから私は改めて母の姿を観察した。
人生でこんなに母を凝視したことはなかった。
母の身体は私の知らない内に小さくなっていたが一生懸命肩で呼吸をしていた。
私はどうしょうもなく涙腺がゆるんだ。
母もいつ涙を流したのか、眼尻が少しだけ汚れていたので、備え付けの濡れたガーゼで拭いて綺麗にした。
伝えておきたかった言葉が沢山あったが、どんなに話し掛けても、もう伝える事が出来ない現実はすぐには受け止めることが出来なかった。
8月のお盆休みに『今度会うのは11月のお父さんの誕生日だね。』と伝えたのが最後に交わした言葉になってしまった。
母には身体中に様々なセンサーが取り付けられていた。左手首の血管に指先で軽く触れると、血液は勢い良く流れていて、母の心臓の活動が伝わって来た。
言葉は交わせなかったが、自力で一生懸命呼吸している母に会うことが出来て良かったとその時は思った。


12時から5時までの間、時に肩で息をしたり、時にすやすやと眠る母を看続けた。
母は眼を閉じたまま、秋の光の差し込む窓側に顔を10度ほど傾けて、少しだけ開けた口から赤ちゃんのように舌を見せて寝息をたてていた。
本当に人は二度赤ちゃんになるんだなと思った。
今まで苦労した分ゆっくり寝て欲しい。
そして必ずもう一度目覚めて欲しいと私は祈った。

途中で担当の看護婦さんが、熱のある母の為に添えられている枕元と脇の下の冷却材を変えながら、床ずれにならないようにと、寝ている母の態勢を今度は真上に顔が向くように治して下さった。口は閉じなかったか、舌は口の中に隠れた。
5時過ぎに翌日の月曜日に休みを取ってくれた四つ上の兄が病室へ戻って来てくれた。
暫く兄と話しをしてから私は、
『母さん!今夜も兄貴がそばにいるから淋しくないね。』と母の頬を触りながら伝えて病室を後にした。病院の玄関を出ると太平洋を越えて九十九里浜の方から吹いて来た風が病院の壁に当たり、ビル風のように強く私の体に吹きつけて来た。九月の太陽は傾きかけていた。
タバコを吸って心を落ち着けてから、5時半過ぎに私が車のエンジンをかけると、もうすぐ日没なのでライトの点灯を確認するようにと、ナビゲーションシステムの女性の声が伝えてきた。
その後、病院からちょうど21kmの生まれ育った家へ向かった。
運転中、生まれ育った家の方角の60度ほどの高さの空には、右下の明るい三日月がクッキリと浮かんでいた。
車を運転しながら私はいつしか13年の間、毎週三回、人工透析に通っている時に、送る父と送られる母はどのような会話をしたのかを想像していた。単純計算で2028日で、父は二往復するので4056回で約162240km運転していたことになる・・・・。

そんなことを考えているうち、子供のころ自転車で通った道を思い出し、ナビゲーションの指示とは違う遠い記憶の道を通って私は生家へ向かった。中学生の頃に鮎を釣った、秋に鮭が遡上する栗山川の橋の袂にあった二つならんだ釣具屋は無くなっていた。
子供の頃には広く感じた隣町の駅前の交差点は、こんなにも狭かったのかと思うほどの面積に感じられた。
生家に戻ると一つ歳上の従姉夫婦が心配して来てくれていた。
お仏壇に線香をあげてから、
従姉とは数年ぶりの再会だったので、色々な話をしながら一緒に夕飯を食べてから、私は所沢の自宅へ向かった。
夜は空いているので、東金までは高校の通学路であった国道126号を使い東金ICで高速道路に乗った。
夜空の三日月は右側に見える桔梗ヶ丘の上に建つ母校の中学校の校舎のすぐ上にまで降りて来ていた。
そしてやはり途中の右側の山の上に、夜ではあったが母校の高校の校舎の形がシルエットで見えた。
その後、京葉道路の幕張PAで休憩を取った時に観た夜空には、右側の三日月は地平線に消えていた。


20140929月曜日
翌日は午前中がデッサンで午後は油絵の授業だったが、こんな時に仕事はいいから直ぐに病院へ戻れ!と恩師に言われてしまったので、後を助手さんに託して自宅へ向かった。
私に有無を言わさない恩師のその口調に感謝しながら、私は前日に引き続き病院へ戻った。
恩師には事あるたびに、ちゃんと親孝行しなさいと言われていたが、果たして私が親孝行していたかはわからない。
たぶん出来ていなかったのだと思う。
車を運転中、渋滞の度に涙があふれて止まらなかったが、なんとか無事に病院まで運転出来た。

私が病院に着くと、姪と甥2人の母にとっての孫が三人揃ってお見舞いに来てくれていた。長女の姪に会うのは数年ぶりのことであった。彼女は今、アパレル系の会社のショップで店長をしている。長男の甥はこの春に建築系の大学院を修了してから大手ゼネコンに就職して、施工の現場監督の見習いをしているようで、忙しい中わざわざ電車でお見舞いに来てくれていた。
甥と姪のことを暫く話をしてから夜通し付き添った次兄から付添いを引き継いだ。
母の容体は土日が山だと言われたが昨日より熱は下がっていた。
昨日と同様に容体を見守りながら私は母に言えなかった思いを語りかけた。
夜の8時過ぎに仕事を終えて来てくれた長兄に付添いを引き継いだ。長兄から夜中には長兄の次男が付き添ってくれると聞いて、それなら寂しくないねと昨日よりも顔色の良い母に伝え私は病室を後にした。帰りの車のラジオからは大型の台風18号が発生したニュースが流れていた。


その2日後の10月1日水曜日の朝に私の母、萩原たき、は永眠した。
病室も個室に移り、夜通し付き添った次兄から早朝に父へ付添いが交代して暫くしてから、父に看取られながらの穏やかな最期だったとのことだった。
テレビのニュースでは50年前に新幹線の運行が開始されたことが伝えられていた。
新幹線ひかりが発車する白黒映像を見ながら、50年前に今の私より若かった母はこの映像を見ながらどの様に思ったのだろうか?と想像した。ちょうど二番目の兄が生まれたばかりで、二歳と産まれたての2人の息子を育てるのに大変だったのだろうか?
私はその時まだこの世に、影も形も存在していないのだが・・・。

母が荼毘にふされ告別式が行なわれた5日後の10月6日の月曜日は、関東に大型台風の18号が接近していた。火葬場では竜巻警報まで出ていた。母は自他ともに認める晴れ女だったので、最期も清々しい秋の空気と光の中で母を送ってあげたかったが、その日の天候は私の心をそのまま映したかのように強い風と雨が降っていた。

台風の中を火葬場から戻って斎場での告別式を終え、いよいよ先祖代々の奥都城への納骨となり、参列して下さった方達と親族が斎場の外に出ると、昨夜から続いていた台風による横殴りの風雨は収まり、なんと青空が広がっていた。

納骨を終え、大型台風の過ぎ去った青空を飛ぶ飛行機を見ながら私は、旅行の好きな母の身体だった物質のある部分は雨と一緒に生まれ育った地元の大地に染み込み、ある部分は台風の風に乗って世界を旅して行くのだろうかと思った。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

その時私は、
人間は炭素ユニットであり、
人は星屑から出来ていることを思い出した。
そして母は最期まで肩で息をしながら、残りの人生を一生懸命生きなさい!と台風の過ぎ去った空の色と共に
私に教えてくれた気がした。
と同時に母から最期に大きな宿題を出された気持ちになった。


はたして私は、
ちゃんと生きているだろうか?



そのすぐ後で私は心臓が止まるかと思う程の経験をしたが、それを文字に表すことは今はまだ出来ない。
嵐の出棺1.91MB.jpg


納骨後の青空.JPG

最初の2枚の写真は7年前に両親の古稀のお祝いで3人で温泉旅行へ行った帰りに寄った南房パラダイスの植物園と、そこにいた鳥に餌を与える私の母の手。
最後の2枚は出棺時と納骨後の青空。


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☆ 八月最後の雲と星の王子様と人狼ゲーム

王子様と八月最後の雲143.jpg

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ロマンスカー箱根湯本到着写真.JPG

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 関東甲信越でも酷暑が一旦収まり、夜はエアコンも要らなくなった8月26日の朝から
私は喉が痛くなり、ビールもタバコも美味しいと思えなくなっていた。
夜には唾液を飲むだけで喉を激痛が走った。
寝る前に生姜と蜂蜜を入れた紅茶を飲んだり、風邪薬を飲むとしばらくは喉の痛みが和らぐので、
翌日にも病院へは行かず安静にしていたが、二日過ぎても喉の痛みは収まらなかった。
夕方マツキヨの薬剤師に症状を相談すると、
その症状は扁桃腺から既にリンパへ炎症が廻っているから、
病院で貰える抗生物質でないと速効性はないとのことだったが、
とりあえず市販の扁桃腺の痛み止めを購入して服用した。

翌日の8月の最後の日からは2泊3日で絵画と日本画の合同ゼミ合宿で箱根の仙石原へ向かった。
箱根に行くのは12年ぶりだった。新宿駅南口に集合しロマンスカーで箱根湯本へ向かう。
ロマンスカーに乗るのは学生の時以来20年ぶりだろうか。
今は八丈島にいる友人と学生時代に伊豆の宇佐美や神子元島でダイビングをした後、
小田原から町田までロマンスカーでアイスコーヒーを飲みながら、
当時住んでいた相模原の橋本へ帰宅した時の事を思い出していたら、
ちょうど車内販売が廻って来たので思わずアイスコーヒーを購入した。
アイスコーヒーの味も容器も当時とは変わっていた。

箱根湯本に着くとちょうど昼だったので、炙り金目鯛と小アジの押し寿司弁当を購入し、
引率の先生方と駅のすぐ脇を流れる河原で食べた。食後に扁桃腺の痛み止めの薬を服用した。
川にはたくさんの魚が泳いでいるのが見えた。
その後、箱根登山鉄道で強羅駅へ向かった。私は引率の先生の1人と一番後ろの席に座ったが、
急坂を登る為のスイッチバックで何度か先頭車両になると、鉄道マニアの気持ちが理解出来た。
思わず何度もカメラのシャッターを切ってしまった。
終点の強羅駅からは路線バスで木漏れ日坂を通り仙石原へ向かった。
仙石原にある大学のセミナーハウスは星の王子様ミュージアムのすぐ近くにあった。
セミナーハウスに荷物を置き、夕食までの自由時間は各自セミナーハウスの周辺へ
スケッチへ向かった。

私は星の王子様ミュージアムは以前見学したことがあったので、
入り口のモニュメントをメモ程度にスケッチしていたら、
他の観光客が覗き込んで来たので早々と切り上げ、周辺を散歩しセミナーハウスへ戻った。

セミナーハウスの温泉は硫黄の香りがして肌が少しピリピリする性質だった。
湯上がり後も身体がポカポカして来るので、夏ではなく冬に入りたいと思った。
喉の痛みは少しづつ良くなっているように思えた。

夕食はセミナーハウスとは思えないほど丁寧な味付けだった。
夕食の後は卒業制作についてのミーティングが行われた。
引率の先生方からそれぞれ卒業制作に向けての話があったので、
私も学生時代を思い出しながら、自分の場合はどんな気持ちで取り組んだかを話した。
ミーティング後の人狼ゲームでは私は三回とも市民役であった。
初めて最後まで殺されずに市民としての勝利の喜びを味わえた。

翌日はPOLA美術館を見学した後で強羅駅からモノレールに乗り
そのあとロープウェイで大涌谷へ向かった。
一個食べると7年寿命が伸びるという黒卵を二つ食べた。
極楽茶屋で赤池地獄の黒ラーメンを食べた。私は喉がまだ少し痛かったので辛さは弱めで注文した。
味は麺は黒いだけで腰が無く、スープも値段の割にはただ辛いだけであった。
その後は腹ごなしに大涌谷を登れる所まで登った。
その日は天気が良かったので遠くまで見晴らすことが出来た。
大涌谷ロープウェイ乗り場の二階のカフェてアイスラテを頼むと、
フリーパスのクーポンでビール以外は40%offとのことだった。

その後は一旦セミナーハウスへ戻ってから歩いて近くの腸詰屋へ行き、
チョリソーサラミとロースの生ハムを購入した後で、
早川を渡る橋の近くのLAWSONで夜の飲み会のお酒を買い出ししてからセミナーハウスへ戻った。
温泉に入り今夜も美味しい夕食の後は2日間のスケッチ講評だった。
学生は皆とても素敵なスケッチをしていて、卒業制作が楽しみになって来た。
この夜も昨夜に続き恒例の人狼ゲームを行い、一回目はやはり市民役であった。
二回目で初めての霊媒師役になった私は人狼役に人狼と疑われ、結局市民に殺された。

最終日は朝食の後、バスで強羅公園へ向かった。小雨が降っていた。
公園内の茶室は時間になっても開いていなかったので
カフェでCoffeeを引率の先生方と助手さんと飲んでしばらく過ごした。
その後も天候は雨の為、彫刻の森美術館へは行かずに箱根湯本駅でとろろ蕎麦を食べてから、
河原の見えるカフェでアイスチャイを飲んでゆっくり過ごした。

帰りのロマンスカーでも椅子を回転させて8人で人狼ゲームをしているうちに新宿駅に到着した。
結局最後まで私は人狼にはならなかった。
新宿駅から埼京線で池袋まで移動し、
地元駅まで方向が一緒の引率の先生と助手さんと3人で西武池袋線の急行に乗った。
帰宅し洗濯をしながらスライスしたサラミをつまみにビールを飲んだ時には
私の喉の痛みは消えていた。
ビールを二本飲んだ後で、冷蔵庫にあったゴーヤーとトマトと塩昆布でパスタを作って
サラミと生ハムを乗せて食べた。

箱根ゼミ合宿2014メモより

パスタ写真.JPG

腸詰屋.JPG

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